60年間も埋められていた1万5000枚の金貨
1930年代のはじめ、ニューヨーク株式市場の暴落に始まった大恐慌が広がり、世界に暗雲が垂れこめたころのことです。ヨーロッパに住んでいた実業家夫妻が、美しい希少な金貨に魅せられ、米国や欧州を旅行して、金貨の収集を始めました。やがて二人が集めた金貨は1万5000枚に達しました。ギリシャ時代から近世のものまで、そして西欧だけでなく中近東を含めた世界100カ国・地域にまたがる広範なコレクションです。
夫妻はヨーロッパのある国で暮らすようになりましたが、ドイツでは1933年にヒットラーが首相に就任すると、国会議事堂が炎上し、ユダヤ人への弾圧が始まりました。ユダヤ人や反対者を閉じ込める収容所が各地につくられ、ナチスが気に入らない著者の本が集められ、あちこちで燃やされました。
恐ろしい事態が迫っていることを感じたのでしょう。夫は集めた金貨を封筒に入れて葉巻の木箱に詰め、さらにアルミニウムのケースに納めてから土の中に埋めました。ほどなく、ヒットラーは近隣諸国を侵略し始めます。その直後に夫は脳卒中で亡くなりました。
金貨を埋めた場所を知っているのは残された夫人だけです。1万5000枚の金貨は、土の中に埋もれたままでした。1990年ごろ、夫人はようやく金貨を発掘する時期が来たと判断し、目録作成と評価額を鑑定してもらうために、英国やスイスなどに拠点を構える大手金貨商のNumismatica Ars Classica(ヌミスマティカ・アルス・クラシカ、NAC)社に相談しました。
夫妻の相続人が金貨を発掘し、銀行の金庫に保管された後、NACの専門家が入念に調べました。封筒が破れたり、木箱が壊れた物もありましたが、金貨そのものはすべて無傷でした。鑑定作業に加わったデイビッド・ゲストさんは、こう語っています。
「品質が素晴らしいだけでなく、金貨の多くは80年間も競売に出品されたことがない珍しいもので、中には記録されたことがないものもありました。私は、夢を見ているのではないことを確かめるために、何度も自分の体をつねらねばなりませんでした」
例えば、18世紀後半にテヘランで鋳造された四角いトマン貨幣は、世界で5組しか知られていないものでした。1629年に神聖ローマ帝国皇帝がハプスブルグ家に贈った350gの大きな金貨も、きわめて珍しいものだといいます。

あまりにも逸品が多いため、オークションは3年かけて開かれることになり、その第1回は今年の5月20日と決まりました。NAC社の報道資料には「このオークションは貨幣の歴史に残る、画期的な出来事となる」と書かれていますが、大げさではないと思います。
夫妻のコレクションの物語を読んで、つくづく思うのは、金は60年間、土に埋もれていても、まったく輝きを失わないということです。夫妻のコレクションは希少価値の高い金貨ばかりなので、評価額は1億ドル(約150億円)を超えるだろうと見られています。
しかし、ありふれた金の延べ板だったとしても、巨額になったでしょう。夫が金貨を土の中に埋めた時、米国ではローズベルト大統領が国民や銀行が持っていた金貨や金延べ板を没収し、そのあとで金の公定価格を1オンス(31g)=35ドルに引き上げ、ドルを切り下げました。
その金は今や1オンス=3000ドルを超えています。86倍に増えたわけです。ナチスの暴虐からも、インフレからも、家族を守ることができたはずです。(写真はNAC、サイト管理人・清水建宇)