私の体験記

ふつうの主婦から外国で孫の世話係へ

スペイン tokkeさん

 娘がスペインに住むようになり、何度か行き来してました。やがて娘に男の子が生まれ、スペインでは子供が一人で外出することが出来ないので、こちらへ来てヘルプしてほしいと言われました。そこで、日本にいる子供たちの許可を得て、スペインに移住しました。

 スペインの在住ビザを取得したのは2020年、コロナ禍の大変な時でした。孫が産まれたとき、私は日本で老犬と暮らしていましたが、その愛犬を見送ってから出発しました。その孫はいま10歳になります。

 スペインに来ても、大好きなお豆腐や厚揚げが食べたくてしかたありません。ネットで調べてバルセロナに「Tofu Catalan」という日本の豆腐屋があることがわかり、店主は以前「ニュースステーション」の解説の方だとも知りました。

 スペイン南部からバルセロナまでは気軽に行ける距離ではありません。でも、娘と一度だけ「Tofu Catalan」に行き、油揚げや厚揚げお豆腐などをたくさん買って、飛行機で持ち帰ったことがあります。

 私は「無就労ビザ」で来ています。高齢なので、娘の家の家事と、両親が留守の時に孫の送迎を手伝っています。

 娘は月曜から水曜まではセビージャで働いており、父親は薬局の仕事があるので、孫の通学や習い事、友達と公園で遊ぶときなどに付き添いをしています。

 昼間は高齢者の体操教室などにも参加していますが、私はスペイン語が話せません。以前は少し聴き取れてたのですが、数年前から少し耳が悪くなり、地元のおばさまたちの会話はまったく聴き取れなくなりました。聞くことを諦めたら、どんどん単語を忘れてしまって、いまはスマホの翻訳機に頼っている状態です。

 いま住んでるエリアは外国人が多く、居心地の良いところですが 日本のお風呂も恋しいし、いつまで一人で日本との往復が出来るのか、不安があります。まだ大丈夫と思いながら、80歳を迎えてしまいました。

 どちらにしても、孫が小学校を卒業するまでは頑張らなくてはなりません。ときどき娘とぶつかりながら。

 「一身二生」というものではないのですが、スペインで暮らす日本人としてお話ししてみたかった、ということだけで連絡しました。

ふつうの主婦から外国で孫の世話係へ」への1件のフィードバック

  • 私も一身二生ほどではありませんが
    朝日新聞読者として、バロセロナでの清水健宇ご夫婦の記事を拝見し、共有してしまいました。
    大学時代、探検部、よく、北海道釧路湿原にゴムボートを、この先は何処に、、なんどか話をしてくれ、結婚前、後、家族で山歩き、縦走をし、大自然大好きな夫を支え、大学の細胞生物学の研究生活定年後、南伊豆に移住したい!全く知らない世人、田舎の文化、山のなかに家をたて、10年住み、やったことのない、畑、草刈り、木の伐採、椎茸栽培、、ジビエ、、念願は子供達、孫達に大自然をかんじさせたい、焚き火、、毎日の暮らしはキャンプに似て、それよりは快適、、
    やりたい気持ちだけ、、住んでから井戸が浅く、、湧き水をタンクに汲みに、、地元の方の応援から山に水
    道ひくに至り、、そんな中、お金はどんどん減り、夫はこれは先が、、と、大自然暮らししながら、外国為替を、、そのさなか、スキルス胃がんで3が月で他界。その後、一人になった私は山小屋を残しつつ、横浜で暮らし、週三、学生寮で食事提供の仕事、50歳からのチェロ、水彩画を〜
    76歳の今、私の人生は生まれた京都24年、神奈川35年へ、アメリカ在住2年、南伊豆10年、横浜5年
    いつも知らない世界ばかり、そして、今も住んだことのない街、
    歴史、文化、発見の日々、、
    夫がよくつぶやいていました、
    人も生き物、人生は川の流れのように変わる、、
    亡き夫の思いは私を今、さいごまで、この思いを大切にしたい、
    この先、体がどんなになろうと、、

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